化学 — 2026.07.22 NO.007 / TSUGINOTE SCIENCE

水と電気で、DNAを64本同時に書いた半導体チップ

要点:DNAを人工的に「書く」作業は、いまも危険な有機溶剤に頼る化学が主流です。ハーバード大などのチームは、半導体チップの上で水と酵素と電流だけを使い、64本の異なるDNA配列を同時に合成したと査読誌 Nature Electronics に報告しました。酵素式の並行合成でこれは新記録です。ただし配列の長さは最長39塩基、しかも密度を上げる試みは失敗しています。すごさと、その先の壁を分けて読みます。

私たちは「DNAを読む」話にはずいぶん慣れました。遺伝子検査も、コロナ禍のPCRも、DNAを読み取る技術の上に立っています。けれど、その裏返しの「DNAを書く(合成する)」作業がどんな現場で行われているかは、あまり知られていません。診断薬も、遺伝子治療も、がん研究も、必要な短いDNA鎖を人工的に作るところから始まるのに、です。

その書き込みは、いまも半世紀近く前に確立したホスホロアミダイト法という化学が担っています。一度に何百万本もの配列を並行して作れる強力な方法ですが、代償として大量の有機溶剤を使い、専用の集中設備を必要とします。「速く大量に」は得意でも、「安全に、その場で、小さく」は苦手——ここに、静かな不満が積もっていました。

細胞のやり方を、まねる

そこで注目されてきたのが酵素的DNA合成です。生きた細胞がDNAを組み立てるのと近いやり方で、水の中で酵素を使って一塩基ずつ鎖を伸ばします。溶剤に頼らないぶん、より穏やかで、小型で安全な「DNAを書く道具」につながりうる——そう期待されてきました。

ただ、弱点がありました。並行して作れる本数が伸びなかったのです。これまで酵素式では、せいぜい十数本を同時に作るのが精一杯でした。ホスホロアミダイト法の桁違いの並列性には、遠く及ばなかったのです。今回、64本を同時に合成できたことが「新記録」と呼ばれるのは、この文脈があってのことです。

電極でpHをつまむ、という発想

ではチップは、どうやって64本を作り分けたのでしょうか。ここが今回いちばん美しいところなので、少していねいに追います。

DNAの合成は、レゴのように一塩基ずつ積み上げていく作業です。新しく足す塩基には、それ以上伸びないための「仮のフタ」が付いています。次の塩基を足すには、このフタを外さなければなりません。この工程を脱保護と呼び、水の中では「酸性にする(pHを下げる)」ことで引き金を引けます。

難しいのは、64か所ある合成サイトのうち、その回に塩基を足したい場所だけを狙って酸性にすることです。全体をいっぺんに酸性にしては、作り分けになりません。

チームの答えは電気化学でした。各サイトには、中心に固定したDNAを囲む二重の同心リング電極が置かれています。塩基を足したいサイトでは、内側のリングに電流を流して水素イオン(プロトン)を生み出し、DNAのすぐ周りだけをピンポイントで酸性にします。同時に外側のリングは電流を逆向きに使い、にじみ出そうとするプロトンを吸い取って、酸性の領域が外へ広がらないよう封じ込めます。この「pHの陣取り」をサイクルごとに切り替えることで、64本それぞれに違う配列を、一塩基ずつ育てていったのです。

面白いのは、このチップの土台がもともとDNA用ではなかったことです。ハム氏の研究室でかつて設計されたのは、多数の神経細胞から内部の電気信号を記録するための電子チップでした。細胞の膜に穴を開けるための「精密な電流注入」という機能を、細胞ではなく分子へ——電極を組み替えてpH制御に転用した、という経緯が語られています。道具の再発明ではなく、既にある土台の使い道を広げた話なのです。

ホスホロアミダイト法と、今回のチップ

観点従来のホスホロアミダイト法今回の酵素式チップ
反応の場有機溶剤(危険物)中心・集中設備水の中/半導体チップ上
並行して作れる本数数百万本(桁違いに多い)64本(酵素式では新記録)
1本の長さ長い配列も可能最長39塩基(短い)
環境負荷溶剤使用で大きい水ベースで小さい
成熟度数十年の実績実証段階・査読済み

数字だけを並べれば、本数でも長さでも従来法にはまだ大きく水をあけられています。今回の価値は「置き換える」ことではなく、溶剤に頼らない道が、実用に耐える並列性へ一歩近づいたことにあります。チームはさらに、この64本に169バイトぶんのテキストを符号化して書き込み、DNAをデータの保存媒体として使う遠い可能性まで示してみせました。ただしDNAデータストレージは、はるかに膨大な合成量を要するため、まだ地平線の向こうの話です。

失敗が、いちばんの発見だった

この研究で私がもっとも誠実だと感じたのは、うまくいかなかった実験の扱いです。チームは「もっと本数を増やせないか」と、サイトをより密に並べたチップを試しました。結果は失敗。けれど、その原因を突き止める過程が、論文の核心のひとつになりました。

調べてみると、電子回路もpHの封じ込めも、きちんと働いていました。犯人は脱保護の化学のほうでした。低いpHはフタを直接外すのではなく、フタを外す「中間の分子」をまず生み出します。この中間分子が、せっかく封じ込めたpHの陣地をすり抜けて隣のサイトへ漂い、境界をぼかしてしまっていたのです。つまり、チップの電子技術はもう十分で、追いついていないのは化学の側——「もっと素直に、その場で酸で外せる脱保護の化学」を作ることが、この分野の次の宿題だと示されました。電子工学の勝利譚で終わらせず、限界の所在を化学に正しく返している点に、報告としての厚みを感じます。


「DNAを工場ではなくチップで書く」という一文は、それだけで未来的に響きます。けれど本当に効くのは、その響きの下で、何が実証され、何がまだできていないかを丁寧に仕分けていることのほうだと思います。64本・最長39塩基という控えめな数字と、密度を上げようとして突き当たった壁。この二つを並べて初めて、今回の一歩が「どこへ向かう一歩なのか」が見えてきます。溶剤まみれの合成を水の中へ移す長い道のりの、確かな一里塚として、次にどんな脱保護の化学が現れるのかを待ちたいところです。

出典:Woo-Bin Jung, Han Sae Jung, Donhee Ham ほか「Parallel enzymatic DNA synthesis using a semiconductor chip」Nature Electronics(2026年、査読済み)。DOI: 10.1038/s41928-026-01662-9 / ハーバードSEASプレス「Making DNA on a Semiconductor Chip」(2026年6月17日)/ 解説:ScienceDaily(2026年7月8日)。数値(64配列・最長39塩基・169バイト)・仕組み・共同機関(ハーバード、Broad Institute、DNA Script、POSTECH)は一次発表および同プレスに基づく。
EDITOR'S NOTE — サグル:見出しは「電気でDNAを書くチップ」で十分に立ちます。でも私が原典で立ち止まったのは、密度を上げて失敗した実験のくだりでした。うまくいった64本より、はみ出した中間分子の話のほうが、この技術の現在地を正直に教えてくれます。すごさは記録に、限界は化学に——両方を持って帰ってもらえたら。