止まったまま、回っているふりをする。
ブラックホールのエネルギー理論を、50年越しに実験室で確かめた。
要点:回転する物体からエネルギーを取り出せる——物理学者ロジャー・ペンローズが1969年に示した思考実験を、米CUNY高等科学研究センター(CUNY ASRC)のチームが実験室で確かめました。使ったのは、実際には一切回転しない電波装置。性質を空間と時間でタイミングよく変化させ「合成回転」を作り出し、そこに来た電波が増幅されることを確認したと査読誌Natureに報告しています(2026年7月8日発表)。ただし確かめられたのは電磁波の物理であり、本物の重力やブラックホールそのものを検証したわけではありません。
回転する物体は、そばを通り過ぎる何かからエネルギーを奪える。物理学者ロジャー・ペンローズが1969年に示したのは、そんな筋書きでした。ブラックホールの周りには、時空そのものが引きずられて回る「エルゴ球」という領域があります。そこに飛び込んだ粒子が二つに分裂し、一方は穴に落ち、もう一方は元より大きなエネルギーを持って飛び出せる、というのがペンローズ過程です。のちに物理学者ヤコフ・ゼルドヴィッチは、この考えを波にも広げました。十分な速さで回転する物体に波がぶつかると、波そのものが増幅されて跳ね返ってくる、という予測です。
この「ペンローズ=ゼルドヴィッチ過程」は、天体物理学と波の物理学の境目に立つ理論として知られてきました。ただし、実際に確かめるのは簡単ではありません。本物のブラックホールは遠すぎて手が届かず、地上の実験で物体を機械的に回転させる方法にも限界があります。速く回すほど材料は壊れやすくなり、摩擦や振動の影響も無視できなくなるからです。理論の予測を装置で直接確かめる実験は、長らく足踏みしていました。
回さずに、回っているふりをする
CUNY ASRCのチームは、この壁を別の角度から越えました。物体を物理的に回すのではなく、電子共振器を輪の形に並べた装置を作り、その性質を空間と時間の両方でタイミングよく変化させたのです。装置そのものは一切動きません。けれど、性質の変化が輪をぐるりと巡る進行パターンを作り出し、そこにやってきた電波は、まるで装置が超高速で回転しているかのように振る舞います。
「適切な回転の性質を持つ波が、この系からエネルギーを引き出して増幅された。ペンローズ=ゼルドヴィッチ過程の本質的な物理を再現した」と、共同筆頭著者のハディ・ムーサ氏(元CUNY ASRC博士課程学生)は述べています。「私たちの手法は、波の伝わり方を制御するよう設計された人工のメタマテリアルに基づいています」
機械の限界を超えた「合成回転」
この合成回転の利点は、機械的な回転がぶつかる速度の壁を持たないことです。研究チームは、実効的な回転速度が光速を超える領域まで踏み込めたとしています。もちろん、装置の部品が実際に光速を超えて動いたわけではありません。電磁波から見て、そう振る舞って見える、という意味です。それでも、これまで実験で近づけなかった極端な回転の物理を、卓上の装置で再現できる場になった点は見逃せません。
研究を率いたアンドレア・アルー教授(CUNY大学院センター、アインシュタイン記念物理学教授)は、「選ばれた回転の性質を持つ波が、時間で操作された合成回転からエネルギーを引き出し、帯域の広い選択的な増幅を生み出す、新しい波と物質の相互作用の方法を、この手法は可能にする」と説明しています。筆頭著者のハディセ・ナサリ博士研究員は、「この実験は、極端な回転力学についての考えを理論から実践へと動かし、天体物理学・波動物理学・量子科学が交わる幅広い現象を探る、汎用性の高い実験の場を作った」と述べました。
ここで確かめられたのは、どこまでか
線を引いておきたいのは、今回の実験が本物の重力やブラックホールを検証したわけではない、という点です。使われたのは電波(電磁波)であり、回転しているのは位相のパターンであって物体そのものではありません。研究チーム自身も、実用的な装置に落とし込むにはさらなる研究が必要だと述べています。無線通信・光学・量子技術への応用が語られていますが、これらはあくまで見通しであり、査読誌Natureで報告されたのは、ペンローズ=ゼルドヴィッチ過程のうち「波の物理」としての核心部分を、合成回転という手段で再現できた、というところまでです。
止まったままの装置が、回っているふりをして電波を増幅する。その手触りは、天体物理学の理論を電子工学の言葉に翻訳し直したもの、と言えそうです。次に確かめられるのは、研究チーム自身が見通しとして挙げている、光や量子の系にも同じ合成回転の手法を広げられるかどうか、その一点でしょう。