物理 — 2026.07.26 NO.016 / TSUGINOTE SCIENCE

中性子ひと粒への問いに、
手のひら大の結晶は少なくとも9つでまとめて応じた

結晶の中で粒子同士が量子的につながる様子を描いた抽象イラスト

要点:オーストリア・ウィーン工科大学(TU Wien)のチームが、手のひら大の"奇妙な金属"結晶に中性子をぶつける実験を行い、「量子フィッシャー情報量」という指標を使って、少なくとも9個の粒子が量子的にもつれ合い、集団としてひとまとまりに応答している証拠を得たと報告しました(査読誌Nature Physics、2026年6月15日発表)。量子もつれはこれまで、ごく少数の粒子からなる小さな系でしか直接測れないとされてきました。ただし今回わかったのは「結晶全体がひとつの量子状態にある」ということではなく、内部の一部が小さな集団単位でもつれ合って反応しているという、限定された範囲の証拠です。

深夜、中性子源のそばで

舞台はフランス・グルノーブルにある研究用原子炉施設、ラウエ・ランジュバン研究所(ILL)です。TU Wienの博士課程学生フェデリコ・マッツァ氏は、セリウム・パラジウム・シリコンから作られた一片の結晶に、中性子を当てては散乱の様子を記録する作業を重ねていました。この結晶は「奇妙な金属(strange metal)」と呼ばれる物質群の一つで、電気の流れ方が通常の金属の理論ではうまく説明できないことで知られています。高温超伝導体にも通じる性質を持つとされ、その正体を探ることが研究の出発点でした。

普通の金属であれば、飛んできた中性子はある一つの粒子にエネルギーを渡し、そこで話は終わるはずです。ところが今回のデータは、そう単純には説明がつかないものでした。

見えないはずのものを、どう数えるか

量子もつれは、複数の粒子が個別には決まらない一体の状態として振る舞う現象です。実験室で意図的に作る場合は、原子や光子を数個〜数十個の規模で慎重に隔離するのが定石で、センチメートル単位の固体の中で、しかも狙わずに生じている量子もつれを直接観測するのは容易ではありません。

そこで使われたのが、イノスブルックの量子物理学者ペーター・ツォラー氏らが理論的な土台を築いた「量子フィッシャー情報量」という考え方です。粒子の集まりが外部からの刺激(今回は中性子)にどれだけ敏感に反応するかを測る指標で、粒子どうしがばらばらに振る舞う場合には反応の大きさに上限があります。もつれ合っている場合は、その上限を超えた反応が起こりうる——この性質を使えば、もつれの存在を"直接見る"のではなく、応答の強さから間接的に推定できます。

アリの巣のように応じた

マッツァ氏らが測定と解析を重ねた結果、結晶の応答は独立した粒子の集まりでは説明できず、少なくとも9個の粒子がまとまって一つの量子的な単位のように振る舞っていることを示す反応が確認されました。論文の共著者であるTU WienのSilke Bühler-Paschen教授は、この様子を「アリの巣」にたとえています。一匹のアリをつついても巣全体が驚くわけではなく、コロニー全体が一つの生き物のように反応する——結晶の中の粒子たちも、それと似た形で中性子という一つの刺激にまとまって応じたというわけです。

ここで大事なのは、これが「結晶ぜんぶが一つの巨大な量子状態になっている」という意味ではないという点です。量子フィッシャー情報量が示すのはあくまで、少なくとも9個という下限の見積もりであり、実際にどの粒子どうしが、どんな形でもつれているのかまでを一意に特定するものではありません。それでも、目で見て手に取れる大きさの物質の中に、多数の粒子が絡み合った量子的なまとまりが存在するという直接的な証拠を示した点は、これまでの手法にはなかった新しさだとされています。

「静かな電流」への、もう一つの見立て

この結果には、もう一つ背景があります。TU WienとライスUniversityの共同チームは2025年、同種の奇妙な金属で電流が異常なほど"静か"に、つまり乱れが少ない状態で流れることを報告していました。なぜそこまで乱れが抑えられるのかは、これまで謎として残っていました。

今回の論文の理論面を主導したヴュルツブルク大学のFakher Assaad氏は、この二つの発見のつながりについて「強いもつれが、奇妙な金属特有のふるまいと直接結びついているように見える」と述べています。粒子どうしがもつれ合って協調することで、電流の乱れを打ち消し合っている——という説明は、あくまで新しく浮かび上がった仮説であり、因果関係として証明された段階ではありません。今回の実験一つで、奇妙な金属の"静かな電流"の謎がすべて解けたわけではないという点は、留めておきたいところです。


研究チーム自身も、次の課題を"応用"の方向に置いています。量子もつれは、量子計測(わずかな信号を高精度でとらえる技術)にとって貴重な資源とされており、Bühler-Paschen氏は「奇妙な金属がいつか量子技術に使えるかを探りたい」と今後の展望を語っています。ただしこれは研究チームが掲げる次の目標であって、実現した成果ではありません。手のひらの上の結晶が、量子の世界の入り口だったのか、それとも一つの物質特有の性質にとどまるのか。答えを決めるのは、他の奇妙な金属でも同じ反応が見つかるかどうかにかかっています。

出典:Federico Mazza et al., "Quantum Fisher information in a strange metal," Nature Physics(2026), DOI: 10.1038/s41567-026-03298-0(2026年6月15日公開・査読済み)/TU Wienプレスリリース "Quantum entanglement: Schrödinger's anthill"(2026年6月16日)
EDITOR'S NOTE — サグル:正直に言うと、最初にこの話を見つけたとき「量子もつれ」という言葉だけで飛びつきそうになりました。でもプレスリリースを読み込むと、研究チーム自身が「シュレーディンガーの猫」ではなく「アリの巣」の比喩を選んでいたことに気づきます。結晶まるごとが不思議な状態にあるのではなく、内部の小さな集団が協調している——この区別を誤ると、話がひとまわり大きくなりすぎてしまうと感じました。