キリンの高血圧から心臓を守るのは、
遺伝子のわずか7カ所の変化。
要点:キリンの心臓は、ヒトのおよそ2倍という血圧で全身に血液を送っています。ヒトなら間違いなく「高血圧」と診断される値ですが、キリンの心臓や血管は日常的にはこれで壊れません。2016年の査読論文(Nature Communications)は、キリンの遺伝子FGFRL1に、ほかのどの反芻動物にも見つからない7カ所のアミノ酸変化があると報告しました。2021年には、この変化をマウスに移植する実験(Science Advances、査読済み)で、人為的に血圧を上げても心臓・腎臓の傷みが抑えられたことが確かめられています。ただし守られているしくみの詳細はまだ分かっておらず、ヒトの高血圧にそのまま応用できるかは、現時点では確認されていません。
もし人間ドックで「収縮期血圧250」という数値を渡されたら、医師はまず精密検査をすすめるはずです。ところが、この水準の血圧を"ふだんの姿"として抱えたまま、木の葉を食べ続けている動物がいます。キリンです。
なぜ壊れないのか。この問いは、少なくとも三つに分けて数えると見通しがよくなります。①どれくらい血圧が高いのか、②何がそれを支えているのか、③その支えは実験で確かめられているのか——順番に見ていきます。
①血圧は、ヒトのおよそ2倍
キリンの心臓は、地上から1.5〜2mほど上にある頭まで、血液を押し上げなければなりません。重力に逆らって液体を持ち上げるには、それだけ強い圧力が要ります。この研究に取り組んだコペンハーゲン大学・西北工業大学(中国)などの国際チームは、2021年3月の研究発表で「キリンの血圧は、ヒトやほとんどの哺乳類のおよそ2倍」と説明しています。ヒトでこの値が続けば、脳卒中や心不全のリスクが跳ね上がる領域です。
②怪しい遺伝子はひとつ、変化はわずか7カ所
手がかりは、2016年にNature Communications誌に載った、キリンと近縁種オカピの全ゲノム比較にありました(Agaba たち, 2016年5月17日公開・査読済み)。オカピは首が短く、キリンのような高血圧の悩みを抱えていません。両者を比べることで、キリンだけに起きた変化を絞り込めます。研究チームは、心臓血管系や骨の成長にかかわるHOX・NOTCH・FGFのシグナル経路の遺伝子群に、キリン特有の変化が集まっていることを見つけました。
なかでも際立っていたのがFGFRL1という遺伝子です。線維芽細胞増殖因子(からだの発生や修復にかかわるタンパク質)の受け手にあたるこの遺伝子に、キリンでは他のどの反芻動物にも見られない7カ所のアミノ酸の変化が集中していました。ゲノム全体からすれば、ごくわずかな箇所です。
③マウスの体に、7カ所を移し替えて確かめる
ここまでは、あくまで「比較から見えてきた仮説」です。本当にFGFRL1が血圧への耐性をもたらすのか。これを確かめたのが、2021年にScience Advances誌に発表された追試実験でした(Liu たち, 2021年3月17日公開・査読済み)。研究チームはCRISPR-Cas9という遺伝子編集の技術を使い、キリンに見つかった7カ所の変化を、そのままマウスのFgfrl1遺伝子に移植しました。
できあがった「キリン型マウス」は、ふつうに生まれ、育ち、子も残せました。首が伸びることもなく、ふだんの心臓のつくりにも目立った変化はありません。違いが表れたのは、血圧を人為的に上げたときです。研究チームはアンジオテンシンIIという血圧を上げるホルモンをマウスに28日間投与し、高血圧の状態をつくり出しました。この処置を受けた通常のマウスは高血圧になり、心臓や腎臓に傷み(線維化)が生じます。ところが「キリン型マウス」は、同じ処置を受けても、心臓・腎臓の線維化が対照群より有意に少なく抑えられていたと報告されています。
| 実験の要素 | 内容 |
|---|---|
| 手法 | CRISPR-Cas9でマウスのFgfrl1にキリン型の7変異を導入 |
| 負荷のかけ方 | アンジオテンシンIIを28日間投与し高血圧を誘発 |
| キリン型マウスの血圧(処置後) | 収縮期 約125mmHg/拡張期 約83mmHg(平均値) |
| 臓器への影響 | 心臓・腎臓の線維化が対照群(通常マウス)より有意に少ない |
分かったことと、まだ先にあること
ここで一度、確かめられたことと、まだのままのことを分けておきます。確かめられたのは「キリン特有の7カ所の変化をマウスに移植すると、人為的な高血圧による心臓・腎臓の傷みが軽くなる」という、実験による裏づけです。まだ分かっていないのは、その仕組みそのもの——FGFRL1の変化が、細胞レベルで具体的に何を変えているのかは、研究チーム自身が「メカニズムは分かっていない」と述べています。
もう一つ、大事な留保があります。今回守られていたのは、あくまでマウスの体であり、キリン本人が実験されたわけではありません。そして、この遺伝子の変化がヒトの高血圧治療にそのまま役立つという証拠は、現時点ではまだありません。研究チームの一人は「同じ遺伝子の変化が、別の生きもので同じ働きをするとは限らない」と、慎重な言葉を添えています。健康や治療に関わる話として読むには、まだ早い段階だと私は思います。
次に動物園で見るとしたら
キリンが水を飲む場面を思い浮かべてみてください。首の長いキリンが頭を下げて水面に届かせるとき、脳への血流は一瞬で大きく変わります。前脚を大きく開いてゆっくり頭を下げ、飲み終えるとまた慎重に頭を持ち上げる——あの独特な姿勢そのものが、血圧の急な変化を和らげるための動きだと考えられています。今度キリンを間近で見る機会があれば、その一連の動きの奥に、遺伝子のわずか7カ所が働いているのかもしれない、と思い出してみてください。