化学 — 2026.09.02 NO.058 / TSUGINOTE SCIENCE

二つの分子が同じ電子を取り合うとき、勝つ側はいつも決まっていました
その決まりを覆す触媒が、電子を先に自由にしてしまう、という報告です

紫色の光を放ちながら進む化学反応を描いた抽象的なイラスト。分子のあいだを電子が飛び交う触媒反応のイメージ

要点:ウィスコンシン大学マディソン校のZachary Wickens教授らの研究チームが、電子移動の選択性をめぐる長年のルールを覆す触媒を報告しました(Nature・2026年7月15日付・査読あり・DOI: 10.1038/s41586-026-10897-7)。従来、2つの分子が電子を奪い合うときは、還元されやすい側が優先的に電子を受け取るとされてきました。この触媒は、電子を特定の相手に渡さず、いったん溶液中へ自由に手放してしまいます。それでも狙った反応がちゃんと選ばれる理由を、コロラド州立大学・コロラド大学ボルダー校との共同研究が説明しています。ただし本紙が確認できたのは大学の発表資料と論文の書誌情報までで、論文本文の具体的な収率や適用範囲の数値には踏み込んでいません。

二つの分子が、同じひとつの電子を欲しがっている。教科書に書かれた電子移動の選択性のルールでは、答えはいつも同じでした。より還元されやすい側、つまり電子を受け取って安定になりやすい側が、その電子をもらう。

その決まりを覆す触媒が、ウィスコンシン大学マディソン校(UW–Madison)のZachary Wickens教授らのチームから報告されました。論文は2026年7月15日付でNatureに掲載されています。共同研究には、コロラド州立大学(CSU)のRobert Paton教授、コロラド大学ボルダー校のNiels Damrauer教授のグループも加わりました。

電子の行き先を決めるルールを、道具の側から覆す。そう聞くと難しそうですが、やっていることは意外と単純です。


なぜ、勝つ側がいつも同じだったのか

化学者は、複雑な化合物を組み立てるとき、単電子移動(SET)と呼ばれる手法をよく使います。反応しにくい分子どうしを電子のやり取りで活性化し、結び付ける方法です。医薬品や高機能材料をつくる場面でも、生体内の反応を再現する場面でも、この手法が使われてきました。

ただし、単電子移動には長年の制約がありました。二つの分子が電子を奪い合うとき、電子は基本的に、より還元されやすい(電子を受け取って安定になりやすい)側へ向かいます。この性質そのものは自然の摂理に近いもので、狙った分子ではなく、たまたま還元されやすいだけの分子に電子が持っていかれてしまうと、望んだ反応は起こりません。研究者は長いあいだ、この好みに逆らえずにきました。

では、この触媒は何でも好きな相手に渡せる万能アダプターなのか

そうではありません。むしろ逆です。Wickens教授はこう説明しています。「私たちの触媒は少し違う動き方をします。電子を直接どこかへ渡すのではなく、溶媒の中へそのまま放出してしまうのです」。

放り出された電子は、溶液の中に自由な状態でいるよりも、ほとんどどんな分子であっても、そこに収まったほうが安定します。だから電子は、目の前で最初に出会った分子に、それがどれだけ電子を受け取りやすい分子かに関係なく、飛びついていきます。Wickens教授の言葉を借りれば、「溶液に浮かんだままの電子より、どんな分子でもましだ」という状態です。

FIG. 電子の行き先が決まる場所の違い/模式図 ① これまでの単電子移動 — 出発点で選ばれる 電子供与体 還元されやすい分子 狙った分子(選ばれない) ② 今回の触媒 — 出発点では選ばない 触媒 溶液へ放出 最初に出会った分子 最初に出会った分子 ③ 選択はそのあとで決まる(逆戻りのしやすさの差) 還元されやすい側 逆戻り(元の状態へ) 狙った分子 生成物へ 配置と比率は説明のための模式で、実測データそのものではありません

選択は、電子が渡ったあとに決まる

ここが今回の報告のいちばん面白いところだと思います。電子が渡る瞬間には、相手はほぼランダムに選ばれます。狙った分子にも、狙っていない分子にも、同じように電子は飛びつきます。それなのに、最終的な生成物は、ちゃんと狙った反応のほうに偏る。なぜそんなことが起こるのか。

計算化学を担当したPaton教授は、こう説明しています。「私たちの計算から分かったのは、決定的な選択性が、電子移動がすでに起きたあとに現れてくるということです。狙った反応物は、電子を受け取ったあとに逆戻り(元の状態への逆電子移動)を逃れて生成物へ進める一方、還元されやすいだけのもう一方の相手は、効率よく出発物質へ引き戻されてしまいます」。つまり、電子を受け取る競争そのものでは決着がつかず、受け取ったあとに「元に戻りやすいか、戻りにくいか」という別の競争が起きていて、そちらで最終的な行き先が決まっている、という説明です。

コロラド大学ボルダー校のDamrauer教授らのグループは、分光測定によってこの過程を裏側から検証しました。国立科学財団(NSF)が支援するCenter for Sustainable Photoredox Catalysis(SuPRCat)からの助成も、この検証作業を支えたとされています。

5年かけてつくった触媒の一族

Wickens研究室は、この選択性のしくみを可能にした触媒の一族を、この5年ほどかけて開発してきたと述べています。Wickens教授は「これは単なる新しい合成法のひとつではなく、酸化還元反応を設計するための新しい考え方です」と位置づけています。

この触媒によって、これまで手が届かなかった結合反応や、有用な新しい分子への道が開けるかもしれない、と大学の発表は述べています。可能性として書かれた見通しであり、確定した応用先が示されているわけではありません。

まだ確かめられていないこと

正直に書いておきたいことがあります。本紙が今回読んだのは、ウィスコンシン大学とEurekAlert!の発表資料、論文の書誌情報とタイトル、そして研究者の発言までです。Nature本文に載っているはずの、具体的な基質の組み合わせや収率の数値、適用できる反応の範囲までは確認できていません。だから「何パーセントの収率で、どんな分子の組み合わせに使えるのか」という、いちばん実用に近い問いには、この記事では答えられません。

また、この触媒が万能というわけでもなさそうです。電子をいったん自由にしてしまう以上、狙った反応がどんな条件でも必ず「逆戻りを逃れる」側になるとは限りません。今回の説明は、逆戻りのしやすさの差が選択性を生む、という一般的なしくみの提示であって、その差がどんな分子の組み合わせでどれだけ大きく出るのかは、今回参照した発表資料には数値として書かれていませんでした。

「選ぶ」ではなく「選ばせない」という設計

この報告のおもしろさは、選択性を上げる工夫ではなく、選択そのものを一度手放す工夫だったところにあると思います。狙った分子だけに電子を渡そうとするのではなく、誰にでも渡してしまい、そのあとの逆戻りのしやすさで結果を絞り込む。これは化学に限らず、うまく仕分けられないときに、いったん全部を通してから後段でふるい分ける、という発想そのものです。Wickens教授が「反応を設計する新しい考え方」と呼んでいるのは、たぶんこの順番の入れ替えのことです。知りたいのは、この考え方がどんな分子の組み合わせで、どれくらいの割合で狙った生成物を作れるのかという具体的な数字のほうですが、それは論文本文を読み直せたときの続きにします。

出典:Edgecomb, J.M., Sau, A., Manoj, N., Resmini, M.D., Meyer, A.F., Paton, R.S., Damrauer, N.H., Wickens, Z.K. "Selectivity Emerges from Indiscriminate Photoreduction." Nature(2026年7月15日付・査読ありDOI: 10.1038/s41586-026-10897-7)https://doi.org/10.1038/s41586-026-10897-7 / University of Wisconsin–Madison "UW chemists find a new way around a long-established limitation to electron transfer selectivity" EurekAlert!(2026年7月24日)https://www.eurekalert.org/news-releases/1137574 / "Chemists set electrons free and break a decades-old chemistry barrier" ScienceDaily(2026年8月9日、University of Wisconsin-Madison提供)https://www.sciencedaily.com/releases/2026/08/260807035147.htm
EDITOR'S NOTE — サグル:今回いちばん悩んだのは、収率や基質の範囲を書かずに記事にしていいのか、という点でした。発表資料に出てくるのは「反応の考え方」の説明までで、具体的な数字は載っていません。数字が無いまま「触媒がすごい」とだけ書くと誇張になってしまうので、この記事では「何が説明されたか」と「何がまだ確認できていないか」を分けて書くことに時間をかけました。次に本文へ当たれるときは、基質の組み合わせと収率の表を、いちばん先に見にいくつもりです。

編集責任者Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.09.02
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