クマムシの「盾タンパク質」が、ついに人の治療に使われ始めた。
要点:この記事で分かることを先に書きます。① 乾燥にも極限環境にも強い生きものクマムシの一種「ヨコヅナクマムシ」から、2016年に東京大学の國枝武和助教らの研究チームが、DNAを守るタンパク質「Dsup」を発見したと報告しました。② Dsupを導入したヒトの培養細胞にX線を当てると、導入していない細胞に比べてDNA損傷がほぼ半分に抑えられたと報告されています。③ 2025年には、アメリカのマサチューセッツ工科大学とアイオワ大学の共同チームが、Dsupの設計図となるmRNAを脂質ナノ粒子に包んでマウスに投与し、放射線治療と同程度の線量を当てても健康な組織のDNA損傷を抑えられたと報告しました。④ これはまだマウスを使った動物実験の段階で、人のがん治療にそのまま使える段階ではありません。DsupがDNAを覆う力は、細胞がふだん必要とする修復や複製の仕組みまで一緒に邪魔してしまう可能性も指摘されています。⑤ クマムシ自体は、日本の公園や庭のコケの中にもふつうに暮らしている、とても身近な生きものです。
10月、庭のコケの中に
10月1日、庭のコケ。指先でひとつまみ取って水に浸すと、縮んでいた小さな粒がゆっくりほどけて、8本の脚がのろのろと動き出します。クマムシです。この生きものから「Dsup(ディーサップ)」というタンパク質を見つけたのは、東京大学大学院理学系研究科の國枝武和助教らの研究チームです(査読済み・Nature Communications、2016年9月20日付、DOI:10.1038/ncomms12808)。そして2025年には、アメリカ・マサチューセッツ工科大学とアイオワ大学の共同チームが、このDsupをマウスの放射線治療の実験に応用したと報告しました(査読済み・Nature Biomedical Engineering、2025年2月26日付、DOI:10.1038/s41551-025-01360-5)。きみの体の中にあった仕組みが、9年かけて人の治療室の入り口まで歩いてきたことになります。
「ヨコヅナ」と名付けられた理由
2016年の研究で調べられたのは、乾燥や放射線への耐性がとりわけ強いことで知られる種、ヨコヅナクマムシ(Ramazzottius varieornatus)です。研究チームが高品質なゲノム配列を解読したところ、ストレスで傷つきやすい遺伝子の経路の一部が失われている一方で、損傷を和らげる遺伝子群が増え、この生きものだけが持つ新しいタンパク質がいくつも見つかりました。そのうちの一つが、DNAと結びつく性質を持つDsupでした。
DNAを、抱きしめて守る
研究チームは、Dsupをつくる遺伝子をヒトの培養細胞に組み込みました。その細胞にX線を当てて比べると、Dsupを持たない細胞に比べて、DNAの鎖が切れる損傷がほぼ半分に抑えられ、細胞は増え続ける力も保っていたと報告されています。Dsupは酸性・塩基性のかたよりが大きいタンパク質で、DNAをゆるく包み込むようにくっつき、放射線が生み出す活性酸素のような攻撃からDNAを覆い隠していると考えられています。きみは、相手を攻撃するのではなく、ただ覆って守るという戦い方を選んだのですね。
2025年、マウスの治療室へ
Dsupというタンパク質そのものを人の体に直接送り届けるのは簡単ではありません。マサチューセッツ工科大学とアイオワ大学の共同チームが選んだのは、Dsupの「設計図」にあたるメッセンジャーRNAを、脂質でできた小さな粒(脂質ナノ粒子)に包んで届ける方法でした。マウスのほおや直腸の組織にこの粒を注射してからおよそ6時間後、がんの放射線治療で使われるのと同程度の線量を照射したところ、Dsupが働いた組織ではDNAの損傷がはっきり抑えられていたと報告されています。
放射線治療は、腫瘍を狙って照射しても周りの健康な組織まで傷つけてしまうことが副作用の大きな原因です。研究チームは、治療の前に健康な組織だけをこの方法で守れれば、がん細胞への効果はそのままに、副作用を減らせるかもしれないと考えています。
まだできないこと、まだ分からないこと
ここまでの実験は、すべてマウスや培養細胞を使ったものです。人に使える治療として確立されたものではなく、安全性や効果が人でも同じように出るかはこれから確かめる段階にあります。研究チーム自身も、Dsupが強くDNAを覆う性質は諸刃の剣になりうると述べています。DNAを覆う力が強すぎると、細胞がふだんの生活で必要とするDNAの修復酵素や、遺伝情報を読み取る仕組みまで一緒に邪魔してしまう可能性があるからです。守る力と、動きを止めてしまう力は、紙一重の場所にあるようです。
身近で確かめられること
クマムシは、南極の氷の下から庭先のコケまで、世界中の水辺に暮らしています。国立極地研究所の研究チームは、1983年に南極で採取されたコケの標本を零下20度で保管し、31年後の2014年に解凍したところ、中から出てきた2匹と卵1個がよみがえり、その後ふつうに子孫を残したとも報告しています。日本でも、公園や庭のコケ、雨どいにたまった湿った砂のようなものの中に、ごくふつうにクマムシは暮らしています。乾いたコケをひとつまみ取って数時間、水に浸しておくだけで、肉眼では見えなくても、手持ちの強い虫眼鏡か簡単な顕微鏡があれば動き出す姿を確かめられます。採る場所が人の採取を制限していないかだけは確かめて、観察が終わったらコケはもといた場所に戻してあげてください。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.10.01
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